にんにくガーリック

元気に小説を書きます。水曜日のお昼ごろ更新の予定。このブログの内容は、特別な記載がない限りフィクションです。

『悪魔の予言』

『悪魔の予言』


 旅立ちから三日続けて、鳥人の運び屋を乗り継ぎ、宿場に着いたら眠る生活を繰り返した。のど袋の臭いを除いて苦のない旅路だ。一般の建物と比べてシャワー室が充実しているのは、同じような旅人のためかもしれない。

 下を見ると山や大河を越えたので、これが徒歩だったらと思うと、後援者と出会えた幸運を強く実感した。

 もちろん部屋が狭いとか、受付が無愛想などなどもあるが、これまでの半生と比べれば豪華であった。しかも計らったように少しずつ、部屋が広くなっていくので、用意してくれた感謝を伝えようと決めた。

 口を閉じて、高度が下がる。今にも飲み込まれそうに思えるのど袋が暗闇になった。

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 激しい揺れが収まって夕日が差した。次の宿場に着いたのを確認しあってすぐに、予め置かれていた荷物を勝手にのど袋に詰めていった。
 そして羽根と承り書だけを置いて飛び去った。

 始終を見ていた蛇人の男が、滑るような歩みで近づいてきた。整った服装からすぐ使用人だと理解できる。右半身が裂けたように伸びる一本腕で帽子を取り、頭の高さを下げた。
「長旅をお疲れ様です。ご予約のお客様で間違いないでしょうか?」
「ええ。モニが予約したレグネーベル、です」
「その名前は──少々お待ちください」
懐から出した電子端末を右腕ひとつの、四本の指で操作し、必要な内容を細長い瞳に映すと、再び懐に戻した。
「支配人のお部屋へご案内します。こちらでございます」
足並みを揃えるためか、姿勢を下げて接地面を増やした。
 蛇人の身体は、畳めば腕すらも含めて一本になる、太くしなやかな尾のようだ。
 彼の一本腕は右側にあるが、器用に後ろから左へ伸ばし、落ちていた羽根と承り書を歩きながらに拾っていった。

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 建物について聞きながら支配人の部屋に通された。四階建の二階、厨房の対角にある一室を私室にしているという。蛇人の行儀はノックではなく、一定の速さのままで滑るような動きで、無音の開閉とそれに続く発声で到着を伝えた。

 案内を終えると、蛇人は音もなく部屋を出ていき、部屋には二人だけが残された。
 椅子を薦めて、お互い同時に座った。座るまでは離れすぎているように見えたが、ハゲタカの長い首が空間を必要とするようだ。

「初めまして、支配人のレンヲです。モニとは古い仲で、あなたはそのご友人と聞きました。彼は元気にしていましたか?」
「ええ、そこそこ以上には。」
「そうですか。念のためですが、彼がどんな方か確認してもいいでしょうか」

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 何か探っていると明らかだった。答え方は淡々と、正確に。注意を出口と支配人の両手に向けた。
「人望が厚いようで、仲の良さそうな方々と笑いあったり、面倒見がよかったりしました」

「──種族と身長は」
鳥人で、およそ百八十」

 しばしの沈黙があった。
 出口へ飛びつくならば、真後ろに飛び退き、椅子を障害物にするのがよさそうだ。低めの卓と椅子の空間は十分にあるので、足が引っかかる心配はなかった。
 もしも部屋の外で何者かが待ち構えていたり、あるいは鍵がかけられていたら? 音こそ聞こえなかったが、蛇人は会話の他には音も動きの抑揚もないため、完全に判別しきるのは困難だ。この部屋で対応するならば──

 使えそうなものが見つからない中、レンヲが「わかりました」と呟いた。
「あなたを信用します。改めて、ようこそいらっしゃいました」
「私からは、あなたこそ不信になったのだけど」
「ああ、探るような会話をお許しください。モニからの連絡は十年ぶりで、前回の内容で左手を折ったと聞き、自ら命を絶ってもおかしくないと思ったのです」
「左手を?」

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 ここで言われるまで気づかなかった。確かにほとんど右手しか使っていなかったが、それ以上に必要にならない状況しか見ていなかったのだ。
鳥人にとって、手を折るのは世界が閉ざされることを意味します。翼を失ってはもう飛べない。そうなれば、ただ脚が弱いだけの存在です」

「しかも、モニは左利きなんです。食事や筆記にも苦労したでしょう」
 いくらかのぎこちなさはあったが、鳥人がそういうものだと思っていた。思えばモニ以外の鳥人を見たのは、ここまで乗り継いだ運び屋たちと、目の前のレンヲだけだ。

「彼は変わったようです。以前の彼なら、特別な仲であっても、これほどの助けはしない方でした。これがレグネーベルさんを疑った理由です」

「引き止めて失礼しました。すぐに部屋へ案内します」

 再び音もなく扉が開き、三人の蛇人たちから案内と、荷物持ちと、詳細な説明を受けた。彼らは腕が一本しかないので複数で分担して右腕と左腕を使う。その文化と生態から集団行動が得意で、使用人として活躍することが多いと教わった。

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 部屋に入った。ここまでより広々とした部屋で二泊して、旅路の身体を休められる。慎重なモニらしい計らいだ。
 それでも荷物はすぐに持ち出せる準備を整えておく。大きな仕込み盾にほとんどの荷物を入れている。トラブルの対応と、荷物の運搬を同時にこなすための特注品だ。
 シャワーを浴び、ベッドへ向かった。柔らかな肌触りが疲労を思い出させた。

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 朝食を摂り、近くを見て回ることにした。
 この街、デリングは大きく賑わい、特に旅人向けの娯楽が多い。地元に住む者は蛇人とリカントロプが多いようで、三本が並ぶ大通りを境に建物の形や高さがガラリと変わっている。

 ホテルの部屋から見えたのは、左右の街並みの境界線を一望できる、つまりは大通りの始点のようだ。
 旅人は前に歩くだけで興味を満たし、振り返るだけで帰路がわかる。

 三本の道はそれぞれ、蛇人だけの商店街、半々とその他の商店街、リカントロプだけの商店街になっている。徹底した棲み分けをしているようで、商店街から奥に続く蛇人の道は狭く、リカントロプの道は広いのに圧迫感を出している。

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 見て回るうちに終点まで着いた。
 そこには街と外を分かつ崖と橋、そしてその一部を使ったロッククライミング道具の貸出し小屋があった。
 最低限の足場と命綱があるとは言え、その下では沢の急流が唸り、落ちたら呑み込まれそうなスリルを実現している。

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 戻り道にて迫る殺気を察知した。
 背後にから足音を殺して、近づいてくる。音がなくとも気配で丸わかりの、感情的な何者かだ。
 試しに、さりげなく足を速めたり遅めたりした。その度に空気の味が移ろう。
 この雑踏では動きにくかろう。どこか場所を窺っているように想定した。

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 それならば、路地を曲がって、人通りの少ない状態で振り返った。リカントロプの一人が追い越していく。
 隣の大通りに抜けて、再び崖のほうへ向かった。

 まず必要なのは、可能な限り人通りの少ない場所だ。雑踏は隠れるには都合がいいので、人が減るにつれて、警戒しやすい場になっていく。
 今日ももちろん、荷物全てを持ち歩いているので、いざとなればこのまま橋を渡って離れてもいい。食べられるものは拾う準備があるし、向かうべき方向は割り出せる。何年も変わらない習慣が活きた。

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 人気がまばらになるほど、人々の歩みは穏やかになり、残り続ける種が目立つようになる。
 はじめは多くを占めていた鳥人リカントロプは合わせても四半分まで減り、少なめだった蛇人はやがて最大多数になった。

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 追手が蛇人でないことを願った。腕を含めても細身の蛇人が、頭を高くすることも不要になれば、ますます見通しがよくなり目立ちやすい。

 仕込み盾のおかげで、街中であってもいくらかの対応はできる。前からは盾の陰、後ろからは身体の陰で、電撃銃をすぐに取り出せる状態にした。三発しか撃てない使い捨て型だが、小型かつ遠慮のない扱いができる。

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 やがて殆どの人がなくなった。残るのはレグネーベル自身と、リカントロプが二人と、隠れているような蛇人が一人だけだ。最も警戒した蛇人に気づかなかったらしき、リカントロプの一人が口を開いた。

「やはり流石だな。鼻の利く人間もいたもんだ」
もう一人も続いた。
「だがここまでであるな。袋小路に案内してくれて助かった」
彼らは左右から挟みこむように位置取った。

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「時に人間、リカントロプの諺を知っているであるか?」
「家族や獲物が奪われると腹が膨れる。たとえ知らなくても、これから教えてやろうじゃないか。なあ兄者」

 二人は懐から武器を取り出した。兄は短剣、弟は皮の鞭だ。
極めて不利な状況だ。体躯で、数で、武器で。これだけ不利が重なれば逃げるのも困難だろう。

 それでもレグネーベルに絶望はない。
 元々が針の穴に糸を通すような生き方を続け、そして乗り越えてきた。今更になって怖気づくようなら、最初から諦めているだろう。

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 崖に飛び込もう。もちろん生きられる確証はどこにもないが、目の前の二人と戦えばより確実な死だ。
 崖と沢は生きていない。つまり執念深くもない。いかに非情な暴力であっても、執念抜きなら最悪よりも格が下がるのだ。

 崖までの距離を見積もった。
 レグネーベルの足では十五歩、リカントロプたちなら九歩程度だ。

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 まずは一歩。構えた盾の裏で電撃銃を取り出した。踵で小石を弾いた。リカントロプの片方が口を開く。
「ところで、釈明は無しであるか?」
「あなたたちが誰のことを言ってるのか、聞いておきたいね」
 二歩め、三歩め。会話で時間稼ぎができるだろうか。
「我らの父だ。貴様のせいで、兄者と共に身を売り、牙を抜く屈辱は──」
「いや、話は終わりである」
制止した。これ以上は会話に頼れない。

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 四歩め、五歩め。兄と呼ばれる方の胸に電撃銃を向けて、引き金に力を込めた。使い捨て故の後先を考えない異音と閃光を三度続けた。

 その三発目で煙を噴き、使い切った本体を弟の側に投げつけた。兄に少なくとも一発は当たり、弟は閃光と投げつけた本体に怯んだ。一瞬ではあるが充分な隙を作った。

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 六、七、八、九。崖へ向かって走る。途中で盾の裏から次の電撃銃を取り出したが、構える手に振り下ろされた鞭で叩き落とされた。

 続く一撃が背中を打った。足がもつれ、地に転がった。盾と岩肌に挟まれ、脚が、腕が、削られる。

 しかし鞭の勢いが加わったか、転がる最後で谷へ飛び込む縁に着いた。このままでは鞭が盾に弾かれるため、本人が爪と牙を剥いて飛びかかる。電撃銃で倒れた兄も起き上がり、再び加勢した。

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 なんとか間に合った。腕と脚を崖に掛け、飛び込んだ。盾を斜めに構えて可能な限りの衝撃を逃す。絶壁から飛び出す鋭い石を受けて盾が歪み、地から離れた。盾の中身がこぼれ落ちるのも構わず再び斜めに持ち直す。

 やがて水面に叩きつけられた。幸いにも岩だらけの流域よりも下流で、盾にしがみついて細かな石に突き上げられながら、流れが弱まる下流を待った。

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 暗い部屋で魔法陣だけが輝き、太く黒い腕が這い上がった。
 黒装束から伸びる青白い手を取って、上半身まで見せた。
 螺旋状に曲がった二本角を揺らし、絞り出すような低い声を発した。
「呼びかけに応えた。明日の正午、林間の広場へ向かえ」
「また、流れ者か」
「その通り。しかも生きているぞ」
「用意するべき物は?」
「腕と、陣と、言葉だ」
「相変わらず遠回しだな。助かるよ」

 嘲るような音を残し、再び魔法陣の中へ降りていった。

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 気づいたときには、川辺で仰向けになっていた。少し動いた途端に飛び込んできた太陽は高く、どうやら今は真昼のようだ。

持ち物を確認する。忍ばせていた武器、短剣が一本のみ。仕込み盾、川との際にある。盾の中身、水と砂利だけ。

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 周囲に生き物の動く気配はなく、林を抜けて進むしかなさそうだ。さもなくば飢え死にすることになる。
 幸いにも獣道があった。集落が近いか、最悪でも動くものがいる。捕まえれば食べられるだろう。
 足下に生える草やキノコを確認しながら歩みを進めた。

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 背が低く赤色の葉、そしてすぐ近くには川。これを食べる動物は、どれも小さいのであまり頼りにはならない。
 白い傘の密集、これは水を沸かせられれば直接でも食べられる。試してはいないが、魚獲りにも使えると聞いている。ひと握りを採った。

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 その時、草の揺れる音が聞こえた。足を止め、周囲の様子に意識を向けた。
 方向ひとつ。一定の間隔を維持。おそらく単体。足は二本。近寄るのでは──ないようだ。
 この中では、足の数が最もいい情報だ。二本足の多くは会話ができる種なので、親切ならば助けてもらう、そうでないな持ち物をら奪うか、やがて集落へ戻るところを追跡する。
 音が止まった。動きを止めたのだ。場所は遠いか、入り組んだ先だ。
 その方向へ向かった。音が聞こえないままなので、止まっているか、草のない地面がある。

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 姿が見えた。接近を知っていたように正面から向かい合い、黒装束から青白い肌を覗かせていた。
「流されてきたんだろう。どこからだ?」
抑揚のない嗄れた声で話をはじめた。

「デリングから」
「そんな上流から、よく生きてたね。いままでで一番さ」
「他にも流れ着いた人が?」
「この辺には時々、あなたみたい奴が来るんだ。今では村だってある。我々は歓迎するよ」
そう言って踵を返し、ゆっくりと歩き始めた。

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「皆の衆、新たな者がついた」
二人でいた時と同じような大きさだが、この声が届いたのか、近くの家が扉を開けた。

「まずはこちらへどうぞ、宿を用意していますよ」
とても大柄な男のようだ。背の高いレグネーベルよりさらに頭ひとつ抜き出た黒装束から、やはり青白い肌をして、抑揚のない嗄れた声をしている。

「ありがとう。しばらく世話になります」
「しばらくと言わず、いくらでも居ていいよ」
別の家から現れた、長身の女が語りかけた。
「もう長老から聞いてるかしら。この村にいる者たちはみんな背が大きくて、嗄れ声なのよ」

 レグネーベルはこれまで、人間の男や他の種族と比べても、見下ろすことが多かった。見上げる相手に囲まれるのは初めてのことだ。しかも大きな差で。

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 宿屋で食事を平らげ、この日はすぐに眠った。
 お金をすべて流されたと言いかけるたび、それを遮るように料理や毛布が運ばれた。
 訝しんで説明を求めると「流された人は何も持っていないんだから、手厚く歓迎するのがうちらの礼儀だ」と口を揃えた。

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 翌朝の目覚めは、昨日が嘘だったようにすっきりとしていた。身体中の傷が癒え、酷使していた骨と筋肉も軽くなった。それでも場所を見れば、あれが夢の出来事ではなかったとわかる。
 部屋を見渡すと、中央に香のような半球が置かれ、ゆっくり覗くと大の字をした紙切れと燃え殻が燻っていた。

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 おそるおそる扉を開け、宿屋の主人に挨拶をした。
「おはよう、ございます。私は、何日ぐらい眠っていましたか?」
「おはよう。何日というと、半日程度だ」
「部屋にあった燃え殻は」
「ああ、あれか。楽になっただろう? 長老お手製の回復薬だ」

 あまり納得できるものではないが、これが誤魔化しと思うには下手すぎる。
 真偽も気になるので、長老に挨拶をしようと決めた。

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 道中で背が腰までしかない、幼い少年が声をかけた。
「おねーさん、初めまして」
 抑揚は控えめだが、明らかに他よりはついていた。自身を除いて、この村では彼だけが血色のいい顔をしている。
 長老の家まではわずかな距離だが、話相手としては充分だった。

「初めまして。あなたは?」
「僕は、何年か前に流されてきたんだ。宿屋のおじさんの料理、おいしいでしょ。僕もよく食べるんだ」
「普段はどのぐらいのお金を払うの?」
「いつも入ったらすぐ、友達だから腕を奮ってくれるんだよ! おっと、もう着いちゃった。また後でね!」

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 話がいくらか噛み合わないのは、なんらかの理由がありそうに感じた。長身・黒装束・青白い肌。見た限りの共通点をひとつも持たない彼を見て、なんらかの事情があることは明白だった。
 それに名前について気づかないのか、お互いに最後まで名乗らないままだった。

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 長老の家は他の家よりも大きいものだ。扉の前に着くと同時に開き、先日の林間で出会った女性が手招いた。
「いらっしゃい。私もいくつか話をしたくてね」
「長老様、お邪魔します」
「そんなに畏まらなくていいよ。疲れちゃう」

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 扉を通った先は、外観以上の広さがあった。二階建てには見えなかったが、吹き抜けとY字階段が広がり、さらに上へ続く階段が置かれていた。堂々と左右対称に置かれた階段は、とても屋根裏とは思えなかった。

身振りで椅子を薦めながら「驚いたかい」と得意げに笑った。
「私の魔術で広げてあるのさ」
その言葉をにわかには飲み込めなかった。魔術といえば、お伽話でしか聞いたことがないものだ。自分にも使えたら、と願った遠い記憶がある。
 それを実際に、外観よりも広い館を目の当たりにしている。まさか実在するとは思っていなかった。

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「で、あなたに教えようと思ってね。見た所、素質がありそうだ」
 小指ほどの厚さに纏められた書物を取り出した。ページごとに魔法陣といくつかの言葉が記され、扱い方や起こる出来事を学ぶ教科書のようだ。

「こいつを覚えていきな」
「人間の私に、扱えるのですか」
「陣を書いて呪文を唱えるんだが、紙だとか地面だとかに限らず、どこに書いてもいい。それさえできれば種の境界はないよ」

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 便利なものを扱えるのは喜ばしいことだ。それを提案されるには、長老を信用する必要がある。
 なぜ、今まで魔術を聞いたことがないのか。誰も使っていなかった。誰も使う存在と出会ってなかった。誰も使った結果を受けていなかった。

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 疑問を拭うには、まず質問からだ。
「重要そうなのに、なぜ数日のよそ者に教えてくれるのですか」
 ひと呼吸あけて、
「デリングは大きな街だ。あなたも旅人で、大きな宿場に泊まるつもりだったのだろう。しかし谷底に落ち、持っていた荷物を失った」
 さらにひと呼吸あけて、本気だと知らせるように顔を合わせた。
「魔術なら失わない」

 眼窩の青い輝きが強まった。
 話が噛み合わないことばかりで、理由については結局はぐらかされた。準備をしておくとだけ伝えて、この日はお暇することにできた。

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 家を出て振り返ると、やはり中から見るよりも小さな家だ。端に着くまでに必要な歩数は、実際に歩けば明らかだ。

 その姿を見て少年が駆け寄ってきた。
「大工さんが家を建ててくれたよ!」
 手を引きながら案内された。宿屋と比べても近い距離に、新しい焦げ茶色が増えていた。

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「どうだい、今時の人には物足りなくなってるかもしれん。聞かせてほしい」
 中に入って見回した。
 立方体の空間にベッドと椅子と机だけが置かれた簡素なものだが、雨風を凌ぐには十分なものだ。厠は裏手にあり、その後は玄関の向かいにある湧き水で洗えばいい。
「充分すぎます。ありがとう」
「いいってことよ」

 話し終えると少年が割り込んだ。
「村を案内するよ! まず隣が僕の家!」
指を向けた先にも似たような家があり、詳しく見る前に他の家がある方へ駆けて行った。

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 この村では一人一棟の家を持つそうで、長老を囲むように五棟が並んでいた。いま増えた棟を含めると六棟だ。
 長老と宿屋は他の二倍ほどの大きさがあり、残りの四棟のうち、レグネーベルと少年の家は少し大きいようだ。
 そしてそれ以外は低地となり、見渡す限りの草原が広がっていた。あまりに人が少ないが、限界集落というよりも、広大な家族の館のように思えた。

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 足りないものに気づいた。料理に使っていた食材はどこから来た?
 肉類はまだしも、見紛うことのない、まとまった量の野菜があった。畑はどこにある?

 そんな疑問を察知してか、少年が口を挟んだ。
「あとね、街がもう少し先にあるよ。墓場を越えて、その向こう」

 そこで買ってきたのだろうか。そうならば、お金の工面は? 何か特別な文化があるのだろうか。
 気になったので、出発の再準備も兼ねて、街へ出向くことにした。

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 螺旋状の魔法陣を描いた大釜が揺れ、太く黒い腕が這い上がった。
 黒装束から伸びる青白い手を取って、筋肉質な上半身まで見せた。
 耳まで裂けた口から、震えるような低い声を発した。
「呼びかけに応えよう」
「今日のあの子、どうだい。大丈夫そうか?」
「過去に味わって、忘れていた感情を呼び起こすだろうね。可哀想に」
「そいつは、守れそうかい」
「無理だな。自ら望んだことだ。たとえ変化に気づいてなくてもだ」
「だったら、手当ての用意を」
「君じゃあ無理だ。他の皆にもね。まあ、なんとかなるさ」
「役に立たん内容ばかりだな」
「骨折り損を防いだ、と言っておくれよ」
 嘲る笑い声を残し、挨拶もなく魔法陣の中へ落ちていった。

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 言われた通りに歩くとすぐに街並みが見えた。閑静な、寝床ばかりの街外れだ。ここまでは歩数にして六百ほどだが、出歩く人とすれ違うまではさらに二百を歩いた。

 賑わう商店街についた。まずは街並みを見て回った。酒場、食料品店、金物屋、馬車のコラルなど、売買には困らなそうだ。
 傭兵の斡旋所はないようで、ここで稼ぐには他の方法が必要とわかった。

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 とりあえず目についた求人を訪ねてみた。
「あんたの目は──悪いが、他を当たってくれ」
 何も言わないうちに追い払われた。目とはなんのことだろうか。

 考えても仕方ないので、他の日銭稼ぎを探した。ところが、どれだけ手が足りない様子であっても、似たような文言で断られ続けた。

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 そんな所に声をかける男がいた。頬が伸びたように釣りあがった長耳と、醜悪な面構え。エルフの特徴だ。
「お困りかい、嬢ちゃん。へへ、一本どうだい」

 そう言って見せたのは物ではなく、手を使った言葉だ。
 ああ、この手合か。一年以上は離れていたことだが、しかし出発のためなら贅沢も言っていられない。新しい側の記憶では、鳴き真似をしているうちに時が流れ、やがて済んでいたものだ。
 無言のまま腕を背中に回して指を這わせ、陰に隠れるほうの手で数字を書いた。
「へえ、よく知ってるな。いいだろう、買った」

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 そして男に連れられ、狭い宿屋に入った。シャワー室との区切りがカーテンだけのようで、その近くで服に手をかけた。

「どぉれ、よっこらしょ」
 服に手をかける途中で、男の長く鋭い爪が内側から脅した。
 そうして動きを封じた間に男の欲は増し、反対の手を腰に回すと、爪を首筋に移した。
 まだ中も外も準備ができないうちに穿たれることは珍しくなかったが、今回は期間が空き、そうでなくとも際立って乱暴な扱いは、不愉快そのものだった。

 呼吸が運動に支配され、身の芯まで寒気が襲った。
 声は意味を持たずに押し出され、その度に耳元で不気味に囁いた。
「君、慣れてそうな割に、手入れがしっかりしてるね」
「こんな子がいるなんて思わなかった」
「どこから来たんだい?」

 腰を鷲掴みにし、答えられないほどに暴れまわった。

 初めての日を思い出した。繰り返すほどに記憶から薄れ、他の稼ぎ口を得てからは不要になったことだ。重要なことは全て覚えていたつもりだった。それなのに、まさかこれほどに忘れていられるとは思っていなかった。
 おそらくは、最後の記憶のさらに後で交わした一夜がそれまでを忘れさせていた。どこか違った理由を考えると、そこには本物の愛があったと気づいた。金目当てでも体目当てでもなく、一番の目的が別にあるもの。
 戻ることは叶わない。道の都合でも、目的も。
 満身創痍の胸には未だ変わらぬ決意が残っている。十一年ものの焔は消えることを知らない。

 男が果てた後も起き上がる気力がなかった。

--

 男が短い連絡を送ると、配下が部屋の外に荷を置き、小さなひとつのノックをして去った。扉をわずかに開けてそのアタッシェケースを取り、横たわる枕元に置いた。
「思いの外よかったから、色をつけておくよ。この後は好きなだけ休んでから帰りな」
それだけ言い残して先に出て行った。
 やっとの思いで身を起こして中を確認すると、今までで二番目に多くの札束が敷き詰められていた。
 確実に持って帰ろう。このために選んだのだから。

--

 ぼんやりした頭で村へ戻る道を目指した。この場が現実でないような、夢の一幕のような感覚で歩く。
 光がのっぺりとしていた。
 遠近感がなくなり、世界が平坦な、写真になったように感じた。
 最後の曲がり角を前に「おっと、悪いね」とぶつかりかけた若い男が呟き、すぐに立ち去った。
「──ええ、ごめんなさい」
背中を向け、もはや誰にも届かない声で呟いた。

--

「あ! お帰り!」
 獣道の奥から少年の声が届いた。反応することには既に駆け寄っていて、手を取った。
 そのまま引かれるが足が動かずにいたので、何事かがあると伝わったようだ。その場に膝をつき、肩を借りた。彼は溢れる涙を訳も聞かずに拭ってくれた。

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 瞼が開いて見えたのは、宿屋と同じ天井の色だった。
 同じように半球が置かれ、今度は大の字の、下の根元だけが燃えていた。

 椅子には長老ではない、別の女性が座っていた。やはり黒装束から青白い肌を覗かせている。
「いまは夜だ。ずっと寝込んでいたよ」
「──そうですか」

 何も言わずに寄り添ってくれた。レグネーベルには珍しく、求めていたものだ。
 顔を覗くと、眼窩の弱々しい輝きがあった。赤のように見えた光は、何かの感情を訴えるように感じた。

「お名前を聞いてもいいでしょうか」
「名前、か。そうだったね」
思い出すような間を開けた。
「シフミィだ」
「私はレグネーベルといいます」
「よろしくね」
「ええ、ありがとう」

 再び涙が溢れ出した。

「どこまで知っているのですか」
「きみは街に出たあとで、こうなって戻ってきた」
「つまり、他にも同じことが」
「そうだ。たぶん、ほとんどの店で追い払われただろう」
 返事に詰まった所に、ゆっくりと続けた。
「あいつは街で一番の資産家で権力者だよ。欲しいものはあの手この手を使って手に入れようとする。そのために、よそ者の美人を見たら追い払わせているんだ」
 黙ったままで聞いた。
「そしてバッグごと渡された、と。どうやら気に入られちまったようだな。旅立つにしても、村から出ないほうがいい。連中はこっちには来ない」

「これだけあれば、当分は旅ができます」
「そうだね。──急ぐなよ。しばらくは」

 話し込むうちに朝日が昇りはじめた。

---

 それから十数日を過ごした。
 長老の稽古を受けて魔術を学んだ。一日目で小火を起こし、五日目で複数陣を合わせることを覚えた。
「こりゃ思った以上だよ」
「教えるのがお上手なおかげです」
「そっちも思った以上だ」

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 夜には震える身を、シフミィと寄せ合って眠った。日を追うごとに震わせなくなり、やがて昔話をするようになった。
「あなたも大変だったんですね」
「ほんとね。けどそのおかげで今があるわけだし、もうどうでもいいよ」
「強い人」
「あなたこそ」

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 合間に少年と駆けっこをしたり、チャンバラごっこをした。使い古した羊皮紙を小枝に巻きつけて、お互い手加減をして振った。回を重ねるごとに手加減が少なくなり、激しさを増していった。
「今日は本気でやろう!」
「よーし、かかっておいで!」
「おねーちゃんが、本気でかかってきて!」
言い終えてからひと瞬きで二の腕に一撃を入れた。
「あいたぁ! 流石おねーちゃん」

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「初めて泊まった日から、底知れない奴とは思っていたが、まさかこんなに早くお別れとはなぁ」
「どのお料理もとても美味しかったですよ。また食べにきます」
「本当に、底知れなかったもんな」
背中を向けて、黒装束の裾を顔へ運んだ。

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「本当にもう行くの?」
「ええ、もう大丈夫。あなたがいてくれたおかげです」
「──そうね」

「おねーちゃん」
「これ、持って行って!」
草を編んだ輪に小さな半透明の石がついたものを手に乗せた。
「お守りだよ。多難でも乗り越えられるように」

「私も」
青く輝く石がついたものをシフミィも渡した。

レグネーベルはふたつを握りしめた。
「ありがとう。必ず返しにくる」

「長老さん、お世話になりました」
「ひとつ、あなたへの言い残しがあってね」

 二度目の顔を合わせての話だ。
「似ているんだよ。昔の私に会わせてやりたい」

 顔を下ろした。
「ひとつ違うところは、こうして旅立つことだな」

 そして大掛かりな魔法陣を描きあげ、転移の呪文を唱えた。既に知っている場所へ、飛び込むように移動できる。
 行き先はデリングのはずれ、蛇人側の集落のほど近くに見えた、小高い丘。
 戻ってすぐに例のリカントロプに出会ってしまうのを防ぎ、見通しのいい場所を通る。
 最初にレンヲに挨拶をすれば、あとはどうにかなるだろう。

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「うわっ、レグネーベルさん! よかった、心配したんですよ。ここまで戻れたのですね。登ったのでしょうか」
「ご心配をおかけしました。詳しくは明日にでも」
「ええ、そうですね。今のうちに、運び屋の手配をしておきますよ」

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 長老が呼びかけることなく魔法陣が輝き、黒い毛のような影を纏った巨体が、床を軋ませて這い出した。

 長老は階段を駆け上がり、何があったのかを訊こうとした。
「面白いものが見えたのでな。今まで世話になった」
「いきなり何を言ってるんだ? 出て行くってことかい」
「その通り。安心せよ、あなたも望む結末がある」
「ほう。何が見えたか言っていきな」
「平穏な生活をしている者たちの姿があるぞ。人間と、鳥人と、電生物と、ホムンクルス
「私には心当たりが多いね。この村の半分はそうだ」
巨体の男は角と翼を揺らして笑った。
「そうだろうとも。誰の番でも喜ばしいだろう?」
「まあね」
 屋根をこじ開け、鳥人とは異なる翼を広げて飛び立った。


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作者からのお詫び
『グッバイ・マイ・エンジェル』にて次のような台詞がありました。
「ここ四十年ほどは受付ばっかりだな。人間からすると長いだろうが、鳥人としては若い側だ」
これを書いた当初は単発のつもりだったので、
設定を深く考えていませんでした。
その後に続き物として構想を深めた結果、
どうしても年数の話が避けられなくなったので、
重大な変更をします。

モニが受付ばっかりの年数:40年 → 10年
鳥人の寿命:30年ほど
モニの年齢:23歳(人間換算で45歳ほど)

こういった重大な変更を後出しするのは、
読者の皆様が楽しんだ内容を台無しにしてしまう行為と認識しています。
それでも変更に踏み切ったのは、
失うものがまだ少ない段階で、
楽しめる物語を広げる余地を作るためです。

この変更は、やがて改稿するまでは、元のままで残しておきます。
紙にする日がいまから楽しみです。

やがて「あんなことがあったなぁ」と語らえるよう尽力します。
もちろん、これが最初で最後になるようにもです。

以上です。のいん@key37meより

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今回の登場人物
レグネーベル(個人名)
人間の女、身長169cm、20歳前後

レンヲ(個人名)
鳥人の男、身長199cm、22歳(人間換算で44歳前後)
ハゲタカ

蛇人の従者たち
平均:体長290cm、5歳(人間換算で20歳前後)

リカントロプの兄弟
身長201cmと200cm、12歳と11歳(人間換算で20歳前後)

リッチの女・長老、身長197cm、15歳(生前)・257歳(復活後)

リッチの男・宿屋、身長215cm、27歳(生前)・120歳(復活後)

リッチの女・シフミィ、身長188cm、22歳(生前)・122歳(復活後)

人間の少年、身長116cm、9歳

エルフの男
身長152cm、502歳(人間換算で22歳前後)

リッチの女、身長210cm
(本編では出番がなかった)

『ラム酒を一杯』

ラム酒を一杯』

 成人してからもお酒を飲んだことがないと気づいた。

 山本弘樹は二十一歳の誕生日を迎えた。珍しく親戚と集まる機会があり、会う機会の少ない遠い親族からはもう成人かと毎回似たような話をされた。やがてどんな酒が好きかと訊かれて、そういえば飲み物に頓着していなかったと気づいた。
 定食屋や弁当では飲み物は水か、ときどきお茶が出る店だった。自販機にあるものはジュースやココアが多いし、付き合いで行くファミリーレストランにはソフトドリンクとコーヒーしかない。

 東京に戻り、仲のいい同僚に相談した。

 ひとつの店を紹介された。名前はピクシーテール、口コミを中心にするため、知名度は低めで落ち着いた雰囲気だそうだ。そういった店は洒落ているイメージがあったので、普段はバッグにつけているマスコットを外すことにした。

 翌日の夜、さっそく足を運んだ。間違いなくこの扉かと確認しながら扉を開けた。すぐにボーイがやってきて席へと通してくれた。

 とりあえず注文をする。どれも区別がつかないので、手元に書かれていた名前を、いかにもこれが好みな雰囲気を出せるように言った。
「こちらレモンハートを、えー、ひとつ。お願いします」
値段が統一されているおかげで、安いのを選んだとか、高いのを選んだとかと思われないように工夫されている。初心者には有難いものだ。

 程なくしてグラスとチーズが運ばれた。薄い琥珀色の液体が揺らぎ、いかにもアルコールといった匂いが鼻をくすぐった。口をつけてグラスを傾けた。想像よりも甘く、今までよりも辛い、大人の味が広がった。

 翌朝は普段と変わらない朝だった。噂に聞いた二日酔いを心配していたが、どうやら杞憂に終わったようだ。
 出社してすぐに話の種になった。
「行ってきたんだろ、どうだった?」
「うーん、味は少なくとも悪くはないんですが、どうにもよくわからないというか」
「そうかそうか。いいんじゃないか、悪くはないって分かった上に、調子には乗らなそうで」

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 月日は流れて春、山本弘樹は管理職の才を見出されていた。

「皆さま、はじめまして。企画部長の山本弘樹です。どなたも一流大学の出身と聞いています。よろしくお願いします」
深く頭を下げると同時に穏やかな拍手で迎えられた。目先の課題はミニチュア模型の街角を作ることだ。

 陽も傾くころ、新卒の女子社員から声をかけられた。
「コーヒーかココアいかがです?」
「ありがとう、ココアでいいかな」
「はい、どうぞ」
彼女はそのまま隣に座った。

「このストラップ、最近でた"五右衛門が変身したぴかえもん"ですよね? お好きなんですか?」
「え、ああ。子供の頃ずっと好きだったのをこの前、偶然みかけて、懐かしいなーって」
「いいですね、思い出の作品って感じで」

 改めて自己紹介をした。山本弘樹、三十歳、独身。平林恵子、二十三歳、独身。共通の話題に、長い間つづくゲームのシリーズがあった。そのおかげもあり話が弾んでいった。

「私は甥と遊ぶうちに自分も好きになって、今では自分のためにイベントにも行ったり」
「へえ、それも素敵な出会い方だ」
ますます談笑は盛り上がり、気づくと空が赤くなっていた。

 帰りの時刻には社長自ら社員を追い出して回ると聞いていたのは本当だった。駅までの道で、その理由が主に電気代だったと再び盛り上がった。

 ホームで連絡先を交換し、別の方向への電車に乗った。

 やがて家に着いた。久しぶりにたくさん話をした。だらだらとインターネット記事を読み遅くなってからシャワーで済ませることが多かったが、この日は高鳴る心を原動力に、帰ってすぐに、しかも湯船に浸かることにした。

風呂に入り身体を伸ばした。上がるとメッセージが届いていた。新作イベントの発表があったようで、恵子さんからこれについて送られてたのだ。

 ──読みましたか? いままでに無い体験型のイベントのようで、わくわくします。
 ──すぐ気づかなくてごめん、風呂が長くなって、メッセージを読んですぐホームページを見に行きました。楽しそうなので、僕は早速、日曜日に行くことにするよ。

 その返事は時間をあけて帰ってきた。
 ──メッセージってすぐに読むとは限らないものなので、いいんですよ。私もいま、歯磨きをしてて遅れましたし。それより日曜日に行くなら、ご一緒してもいいですか?
 ──ありがとう、若い子もそう思ってるんだね。安心したよ。それよりご一緒って、本当にいいの? 夕食をご馳走とかは期待しないでほしい。恥ずかしながら普段行くようなチェーンのファミレスしか知らないんだ。

 ──歳の差なんてほんの少しじゃないですか。若いのはお互いですよ。私は語る相手がいたほうが楽しいと思ったからで、一人でじっくりのほうが好きな方なら無理にとは言いません。それに夕食は、各自で食べた分だけ払いましょう。私だってもう、自分のこともできない子供じゃないですから。

 これはデートというのではないか、と思いながら寝る準備をした。社内恋愛についての規定はないので問題はないが、万が一これが早とちりになった場合が心配だ。

 当日の会場に着いた。チケットを買い、ベンチに座って開始を待った。他の参加者が来るたびに席を詰めるので、いつのまにか密着していた。

 定員が揃ったので今回の部が始まった。隠された出題を見つけ、その出題に対して回答を探し出す。その内容は他言無用のため、語りたい気持ちをぐっとこらえて飲食店街へ向かった。

「ありがとうございました。クリアできたのは弘樹さんのおかげです」
「こちらこそ、恵子さんがいなかったら無理でしたよ。ありがとう」

夕食の店を探すと「ここなんていかがです?」と勧められて入った。レジにて注文と会計をすませ、席で待つ。
「料理以外はセルフサービスなんですよ。お水を持ってきますね」
「それじゃあ食器は任せて。フォークとナプキンでいいかな」
「ナイフも使います」
話を弾ませている所にカルボナーラと、ポテトのジェノバソース・スパゲッティ、そしてマルゲリータ・ピッツァが運ばれた。

「センプレピッツァか。覚えておくよ」
(これは実在の店名ですが、末端消費者の一人として何度となく通い、おいしいものをたっぷり食べた事実を除いて、筆者との関係はありません。ご近所の方はおいしいイタリアンピッツァをお楽しみください)

 季節が変わり、二人の仲はすっかり社内に広がっていた。この交際は静かながら応援されていた。周囲までもが日々の仕事を早めに片付ける原動力にしていた。

「弘樹さんは、お酒って飲みます?」
「以前にためしに飲んでみたら、その時は一人だったからよくわかんなくて、それから何年も飲んでないね」
「私も試しに飲んでみたいんですけど、ちょっと不安なのでご一緒してほしいな」
「それなら以前に勧められた店があるんだ。前はここで同僚だったんだけど、今は独立した奴から教わったのを、こんどは僕が教える番だ」
「ロマンチックですね! さっそく今夜はいかがでしょう」

 突然ではあったが、困りはしなにのでピクシーテールへ向かった。

「どうやって選べばいいんだろ。名前で選ぶならレモンハートにしようかな」
「僕も一度、同じ理由で選んだことがあるやつだね」
「びっくり! やっぱり気が合いますね」

笑いあった。運命的とはこういうのを言うんだろうか。

 グラスに口をつけてゆっくりと傾ける。たしかに同じものを飲んだことがある。しかしその味わいは新しいものだ。
「二人だとこんなに美味しくなるとは知らなかった」
「ええ、私もです」

やがてつまみのチーズがなくなり、カルパッチョを追加した。

 ふと恵子の顔に違和感を覚えた。グラスには半分ほど残っているが、顔が耳まで赤くなっていた。
「今日はそろそろお暇しようか」
「でも弘樹さん、半分も残したら申し訳ないですよ」
「非礼は謝って済むことがあるけど、健康は謝っても治らないんだぞ」
「私はもうちょっとお話をしたいなー」

とは言うものの、グラスに口をつけようとはしない。

弘樹はグラスを取り「そんなに言うなら」と残った半分を飲んだ。
「これで残してない」
「そんなに飲んで大丈夫ですかぁ?」
「先に自分の心配をしなさい」
「明日はお休みだから大丈夫ですよ」

会計を済ませて外に出た。どれだけ仲が良くても部下の健康を守るのが上司の務めだ。
「弘樹さんも顏が赤くなってきてる」
指摘され意識せざるを得なくなった。まずは家に送り届けるつもりだが、少しの不安があった。
扉が閉まる直前に、背後から「どうぞお幸せに」と聞こえたような気がした。

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 待ち合わせの場所に着くと同時に二通の電子メールが届いた。
一通め──けいすけへ。駅のトイレでならんでて、少し遅れそうです。
二通め──指輪が用意できました。この度はおまたせいたしました。

 成人して間もないので決して小さくはない出費だが、それを上回る価値がある。プロポーズの言葉と指輪を贈る日のために、高校生のうちからお金を貯めるための勉強をしていた。

「おまたせ」
 声をかけられて急いで画面を隠した。サプライズにしたいのでうっかり見せないように気を使っていたが、予想より早く来たので驚いてしまった。不自然にならないよう隠すのを兼ねて挨拶を長めに返した。
「おはよう、和枝さん。思ったより早くて嬉しいよ」
「そう? もしかしてメールの時刻を見てなかった?」

 言われて確認すると、二十分も前に送っていたようで、前に並ぶ人やこの場所への道と合わせても遅いほうだった。
「前の人が長くてね」
「そっか。でも気にならなかったな」

 二人は真昼の街へ向かい、駅に戻ったのは夕方だった。
 逢瀬のときは流れ、次の約束をする。さっき大事な連絡を受けたから、日付を今夜に連絡するよ。楽しみにしてて。

 帰りの電車でもプロポーズの言葉を考えていた。確実な指針がないので答えが出ないままでいたが、これ以上は悩む時間がない。気持ちを正確に、そして簡潔に伝える。重要なことだ。

 呼び方はどうしようか。

 彼女のフルネームはなんだったか。初めて会った日からずっと、苗字ではなく名前で呼んでほしいと言われたため、すっかり覚えていなかった。何か悪い思い出があるのかもしれない。やはり下の名前だけで呼ぶほうがいいだろう。

 続く言葉はどうしようか。

 結婚してください。ひとつの点に注目していて、その後が曖昧じゃあないだろうか。結婚は最後ではなく、新たな門出なのに、その先を考えないのはおかしいのではないか。

 一緒にすごしましょう。結婚した後の話を想像する。うっかり冗長にしそうなので、簡潔さをほか以上に意識しなければ。

 この二通りの他を増やせば冗長になるだけだろうから、このふたつを合わせて決めることにした。たったこれだけでも決断は難しいことだった。お金で困らないような勉強に熱心すぎて、肝心の伝え方については勉強を忘れていたのだ。

 かずえさん、結婚してください。これは直接すぎるだろうか。ください、の部分もどこか嬉しい内容の印象がない。これまでの経験からか、聞き心地が悪い側だった。

 かずえさん、一緒に不幸を乗り越えましょう。これは現実に必要とは言えど、プロポーズとしてはネガティブに寄りすぎた表現だ。言わないままでも実現し、言うにしても別の機会がいいな。

 プロポーズの言葉を考えてはどこか変な気がしていた。スマートフォンの覗き見防止フィルタを買っておけばとも思った。もし横から見られたらと思うと顔が熱くなった。

 そうして案を上げるうちにひとつの答えに着いた。
 変に繕っても台無しなだけだ。素直な気持ちを伝えよう。きっといちばん自分らしい。

 家に着いたらすぐにピクシーテールの席を予約した。そこでおそらく最後の、恋人としての逢瀬を過ごすことになる。日程と場所を書いて電子メールを送った。すぐに返事がきた。
「その日でばっちり大丈夫、楽しみです」

無事に決め終えて、肩の荷が下りた。あとは伝えるのみ。

 二年前、成人式の翌日に両親と盃を交わした。それ以来ときどき訪れるうちに、予約専用の席があると知った。夜景を眺め、注文すればすぐに届く特等席だ。実際に見たのではなく伝聞なので、どんな景色なのか楽しみに想像した。

 いよいよ当日が来た。ランチの味と同時に、これまで以上に心臓が強く鳴る感覚を味わった。

 夕日と鐘の音に迎えられながらピクシーテールの扉をあけた。予約していたと告げ、案内された席に向かう。普段の席とは離れ、全く異なる風景が目に飛び込んだ。そこはまるで初めて訪れた、別の店のように新鮮だった。それでも椅子の座り心地や照明の加減はいつものピクシーテールにいる気分に引き戻してくれた。

 まもなくデカンタとグラスが運ばれてきた。ボーイに礼を言い、グラスに手を触れた。言うべき頃合いを見計らう。
 そこで重要なことに気づいた。お酒を飲んだら、勢いに任せて冷静さを欠くのではないか。そうでなくとも、それを狙っているように見えるかもしれない。今更になって気づく大ポカだが、別の日にすればさらに失敗は大きくなる。

 とにかくグラスが口へ届く前に言わなければ。間違いなく酔っていない今のうちに、慌てて口を開いた。
「待って、飲む前にひとつ」
慌てすぎて呂律に不安があったが、無事に通じたようだ。真剣な面持ちになった。
「ええ、待ちますよ」
グラスを戻し、両手を膝の上に置いた。緊張がすでに伝わっていそうて、ますます心臓が飛び出しそうだ。ボーイも持ち場を離れて背中を遠くに見せた。世界が二人だけに感じられる空間となり、いよいよこの瞬間に進む。

「結婚をしよう。幸せになれると思うし、不幸も乗り越えると思ってる。そして、君も同じだと思ってる」

 言い終えて心臓の音が聴こえてきた。一秒ごとに一年が過ぎていくように感じた。
 返事が届いた。

「もちろんです。喜んで」
そして両手を出したので、その手を取り、握った。

「私のためにたくさんの準備してくれたんでしょう」
「君こそ、この手で次に何をしていいか導いてくれた」
「いつも頑張ってて、私が手伝えるのはこういう所ばっかりだから、できることをやらなきゃ」

 語らいは続き、ようやくグラスが口に触れた。変わりないはずなのに違う味が広がった。今日は口よりも胸がいっぱいだった。

「やっと苗字が変わるんだぁ」
「ああ、そうか。大変な手間をかけさせるけど、できる範囲は僕がやるよ」
「だめ。私にやらせて。自分で済ませたい」

 その口ぶりは苗字について悪い思い出があるように見えた。
「わかった。それじゃあ──」
言うべきことを決めた。
「改めてよろしく、山本和枝さん」