にんにくガーリック

元気に小説を書きます。水曜日のお昼ごろ更新の予定。このブログの内容は、特別な記載がない限りフィクションです。

『グッバイ・マイ・エンジェル』

『グッバイ・マイ・エンジェル』

 扉を丁寧に開けて一人の顔が入った。白かった服には黄ばみと所々の解れが見え、髪を
精一杯に整えたが傷や古い汚れを隠しきれていない。見るからに貧乏か、そう見せたいよ
うな姿だ。この部屋に似たような身なりの者が来ることは何度となくあったが、大抵は相
場を知らずに無視されるか、無理に金を用意をしても足りず結局何も得られず帰る奴ばか
りだった。受付の男が向きなおり、帰りやすい言葉選びで追い払おうとした。
「よう、お嬢ちゃん。何の用だい?」

 受付の男を見て種族の違いに狼狽した。鳥人はこの地域には珍しいので、驚かれるのは
慣れていた。喋り終えると小ぶりの嘴が鳴る。異種族には歳若いか壮年か、真面目な顔か
にやけ顔かもまるで判断がつかない。
 相手が誰であっても受付業ならば、言うべきことは同じだ。
「仕事をもらいに来た」
「へえ。念のため確認だ。うちは傭兵の管理と斡旋所で、売店は隣、キャバレーは向かい
側。間違いは無いかな」
迷いなく頷いた。長くこの場に立っているが、この答えは初めてだ。ましてや年端もいか
ない女など。
「経験は?」
「二年ほど。直近では、こそ泥を捕まえた」
他にもあるだろうが、傭兵としてはどちらでもいい。あって損はないだけだ。
「そうかい。なら最初はこれだな」

掲示板の隅から小さな紙を取った。
内容とは別に日付や報酬を示す数字ブロックが文鎮を兼ねていた。
『企業秘密を盗もうとする工作員の確保を頼む。変装用の制服や必要な道具は貸与。消耗
品は用意した分は自由に使ってよい』


「そいつの達成をもって合格とする」
聞くが早いか、無言で頷き踵を返した。存外に迷いのない姿勢に面食らって「待ちな」と
振り返らせ、小さなバッジを渡した。
「こいつが依頼を受けた傭兵の印だ。必要な相手にだけ見せろ」
どこにつけるべきか答えをすぐに出した。襟の内側に。必要な時だけめくって見せられ
る。
「そうだ、それでいい」
再び確かな足取りで部屋を出ていった。

 依頼人の指定した場所についた。挨拶を一言で済ませてすぐに目標の説明を求め、それ
は好意的に受け止められた。
 担当者は廊下にいるまま、道具もない一人だけで説明を始めた。街中に潜む産業スパイ
がなにやら嗅ぎ回っていること。同業者を中心に回っているようで、他はともかく自分た
ちの元へは防ぎたいこと。捕えるか、適当に始末してくれればいい。期限は今日と明日の
み。 
 詳しい業種については決して語らないが、その身に染み付いた匂いから酒や煙草を扱うものだと容易に想像できた。
 シャワーを借り、服を着替えた。バッジを同じ場所に付け替え、必要な道具を受け取った。殺傷力を調整できる電撃銃と、電流装置のついた投網だ。この装備は半年前に見たことがあった。三番街で広く使われていて、あたりの禁煙でない場は酒場バッカスだけだ。
 不親切な依頼から場所の検討をつけ、部屋を出た。

 整った服を着るのは初めてで、街道を歩くのは久しぶりのことだ。日中の活気を受けな
がらすれ違う人を観察した。種族は人間が最も多く、次いでリカントロプやホビトが目立
つ。総じて大荷物を抱えた買い出しで賑わっているようだ。
 大荷物を持たず、一人で行動すればそれだけで目立つ。自身を含む警備兵の他にも目立
つ者がいた。
 小ぶりの肩掛けバッグから複数の果実を覗かせているが、匂いが強いレモンで、他の匂
いを誤魔化しているように見えた。靴音に耳を澄ませると、かすかに液体のような音があ
った。そのような種族を知っていた。アメーボイド、姿を自由に変える能力を持ちなが
ら、わざわざ小柄なホビトに化け、しかもレモンだけは本物を持っている。
 スパイとしては充分に怪しむ余地があった。囮の可能性を念頭に置きながら視界の範囲
に捉え続けた。

 やがて酒場バッカスに辿り着いた。尾行していたアメーボイドは入り口ではなく脇道に
向かい、通風孔から中に入り込んだ。雨避けの陰にレモンを仕込み、近寄った者を匂いで
見つける準備をしていると気づいた。
 追って裏口から中に入った。この建物を巡る通風孔はすでに知っていた。幸運が重なっ
たので警戒心を強めた。有利な時こそ危険が潜むものだ。
 事務室の扉に聞き耳を立てた。思った通り、不自然な滑り落ちる音が聞こえた。この部
屋が同じ置き方ならば、逃げ道を塞ぐにはあと五秒。四、三、二、一‥‥。
 大きく音を立てて扉を開け、焦らせた隙を狙って電撃銃が光った。予想通り、逃げ道は
なかった。倒れたアメーボイドを投網で捕らえて、依頼人をこの場に呼ぶ。彼はこの場所
まで時間がかかったように見せた。待つ間に逃げようとしたアメーボイドを投網の電流で
制した。
 割符の受け取りをもって完了を確認した。

 結果を報告しに斡旋所へ戻った。相変わらず真面目なのかにやけ顔なのかわからない男
が座っている。成功の証、割符を冠にしたバッジを見て立ち上がった。
「初めての成功おめでとう。君の実力を認めよう。こいつが報酬だ」
机から現金の入った封筒を取り出した。
「それから宿舎を使うんだったな。ついてきな」
脇の扉を開け、階段を登る。明らかに受付の部屋よりも汚れが少なくなった。
「この階に食堂とシャワー室があって、訓練場はもうひとつ上だ。寝床はちょうど空いて
るシャワー室の隣を使ってくれ」

 言いどきを逃したように「あと、俺の名前ぐらい聞いておけ」と付け足した。
「受付のモニだ。ここ四十年ほどは受付ばっかりだな。人間からすると長いだろうが、鳥
人としては若い側だ」
「そう」
「この宿舎の管理は各人に頼んでいるから、まあ、仲良くしてくれよ」
「もちろん、わざわざ敵を増やしはしない」
「話が早くて助かる」

「ああ、それと」
再び呼び止めた。
「思ったより早く済ませたな。気に入った。訓練場の無料期間を延ばしておくよ」

 ひと通り宿舎を周り、用意された施設を堪能した。部屋に入りすぐに眠った。久しぶり
の柔らかい布団で、久しぶりに満腹で。

---

 訓練場の射撃レーンは最奥が指定席のようになっている。火薬式と光学式の匂いが混ざ
り、まるで決闘場のように思えた。出向く前に、合間に、後に。的を撃ち、穴だらけにな
った紙をファイルに入れる。
 初めて銃を持ってから四日、使い終えた的はファイルの六枚目を膨らませていた。新し
いものほど穴の場所が落ち着き、技量の差は歴然だ。

 日が傾いてきた。汗をぬぐいながらシャワー室に向かう。階段の下で待っていたモニが
話しかけた。
「熱心だな」
「ええ。目標にはまだ足りないけど」
「溜めた的を見せてもらったが、それ以上は何が欲しいんだ?」
「狙いの早さ、不安定な姿勢から安定させる方法、構え続ける体力。足りなさはいくらで
も出てくる」
モニは目を丸くした。これほどの意志を見たのは初めてだ。一体何が彼女をここまで駆り
立てるのだろう。
「その向上心のおかげか、上達が早いね。よほど大きな目的があると見える」
「ええ」
視線を向けないままで答えた。脱衣所に入り、薄い扉越しに話を続ける。

「私だけを残して、家族を連れ去られた」
モニは黙ったままで聞いた。
「理由は知らないけど、私はいらないからと残されたの」
服を置く音が大きくなった気がした。
「その時の二人組の傭兵が言ってた、どこかの偉ぶる奴を探している」
扉に近づいた気配を感じた。
「何か知らない?」

「いや、聞いたこともないな」
「身体がほしい?」
内側から扉を開けた。一糸まとわぬことを意識させないほど真剣な目をしていた。
「隠してるわけじゃあないさ。本当に知らないんだ」
「そう」
扉を閉めて奥に向かった。
「あと、あなたじゃないのは確実だから安心して」
「ああ、鳥人を見たのは初めてだったようだしな。それで、取り返しに行くってことか」
「違う。復讐しに行く」
「そうかい。俺としては、可愛い子を危険な目に遭わせたり、ますます汚れさせるのは心
が痛いのだが」
「止めるの?」
「別の方法に心当たりができなら、な」
「ふうん。応援ありがと」

シャワーの水音が聞こえてきた。
「なあ、もう一個だけいいか?」
水音が止まり、「なに?」と返事をした。
「あんたの名前、聞いてもいいか?」
「‥‥レグネーベル」
一言だけで名乗ると、これ以上の返事を待たずに再び水音を鳴らした。

 時計が日付の境目を知らせた。待っていた。受話器を取った。
「もしもし。ああ、モニだ。調べてほしいことがある」
「いや、今度は俺のじゃなくてな」
「強気だな。払ってやるよ。お前にはかなわん」
「ああ、場所はそこでいい」
 そして受話器を置いた。

---

 使い終えた的をまとめたファイル十冊を運んだ。最後の一冊は重ねて穴を開けただけの
ように同じ場所へ撃ち込まれていた。
 レグネーベルが降りると珍しくグループが座って談笑していた。彼らは誰が来たかを確
認するだけで自分たちの話に戻った。これは居心地がいいことだ。
「あんたか。こいつを見てくれ」
「お! モニちゃんも隅に置けないことをするね」
「くだらん詮索はよせ」
彼らの興味はあくまで受付のモニらしい。長いこと世話になり友情のようなものがあるの
だろう。一言の茶々入れをしてすぐに外へ出た。
「それで?」
こいつと言って置いていたのは明らかにつまみのメニューだ。
「おっと怒るなよ。うまそうなのは間違いないが、本題は下にあるこいつだ」
ひとつの依頼を取り出した。筆跡が読めないようにした直線的な文字はそれだけで充分に
危険を伝えていた。内容を読むとすぐに、これが雰囲気だけのいたずらではないとわかっ
た。

『頭を暗殺しろ。正面に勝ち目はない。隙を見せる時間だ。法律家の対処も任せる。』
 ごく単純な言葉と小さな似顔絵だけが書かれていた。その困難さは紙の外、依頼掲示
の数字ブロックが物語っていた。明らかに傷の少ない多桁ブロックが使われていた。

「確証はないが、確認したいだろうと思ってな」
「すぐに行く」
支度を整えて飛び出した。後ろから小さく「頼むぞ」と聞こえた気がしたが無視した。

 似顔絵の男がやってきた。リカントロプの区別は困難で、人間よりもはるかに鼻がいい
ため、新入りの女給として潜り込んだ。そのため間違いなく目標だとわかった。身長はお
よそ二百十、死角からの急襲を候補から外した。左右の腕が別に動いている。どうやら左
腕になにかの不調があるようだ。狙いやすい場所を絞っていく。

 いつ仕留めるかを決めあぐねていたが、配膳の担当が体調を崩していると聞いて狙い目
を決めた。夕食を狙う。
「僭越ながら、私が代わってもよろしいでしょうか」
「いいけど、旦那様は新入りを警戒するよ」
「そうそう、いびられちゃうかも」
「大丈夫です。これまでやってきた自信があります」
顔を見合わせた。この新入りがどれだけの者か見る機会だろうと思った。
「そう言うなら任せてみようか」
「ありがとうございます」

 そして夕食の時がきた。
「失礼します、旦那様。新参者ですが、先輩方の体調の都合から配膳を承りました」
「ああ、ありがとう。この匂いはスパゲティかな」「ところで、毒見をしてもらおうか」
「もちろんでございます」
レグネーベルは蓋を取り、全ての皿から一口ずつを食べた。
「遠慮がちだな。もっと食べていいんだぞ」
「それでは、お言葉に甘えて」
さらに二口ずつを食べながら皿の上をかき混ぜた。
「毒の臭いは無しか。ありがとう」
「失礼します」

 去り際に椅子の背後へ回り、呼吸を止めながら小瓶の蓋を開けた。嗅覚により察知されるならば、嗅覚を利用しよう。強い刺激臭を持つ気体の毒薬を使い脳を揺さぶった。
「貴様‥‥!」
立ち上がろうとするが、足がもつれて倒れ臥した。こうなってしまえば体格の差は関係が
ない。台車からスパゲティを固めて作った短剣を取り出し、体重をかけて喉を突いた。う
めき声をあげた。うまく刺さらなかったのだ。刃を前後させて傷口を広げ、抜いて再び刺
した。続く声はなかった。
 処分は必要と言われていないので、そのままに退散した。部屋の外で新しい空気を味わ
い、手に付いていた赤い汚れを拭った。

 館で見たものを書類にまとめた。似た事情はあったようだが、探しているのとは別の者
のようだ。

 宿舎に戻った。連絡をする前から報酬が用意されていた。
「お疲れさん、無事だったようだな」
「そうね」
そのまま階段へむかった。すれ違う直前に「ありがとうな」と呟いた。
「なに?」
「いや、もうどうでもいいことさ」
そう言うモニの顔は幾分か晴れやかに感じた。

 部屋に戻るとすぐにノックがあった。
「すまん、さっき言い忘れちまった。明後日からの、同行を頼みたい依頼が届いていて
な」
モニはかいつまんで説明した。要人の護衛のため、ホテルに一般客として宿泊すること。
不審な者を見つけたら、陽動なり迎撃なりすること。
「なぜ私に?」
「も、だな。何人も来て欲しいんだと。それから」
真剣な面持ちをした。
「こいつは護衛が必要な覚えがあって、しかも正規兵に頼れない事情があるってことだ」

 ひと呼吸を置いてから答えた。
「そうね」
「決まりだな」
その日はすぐに眠った。

---


「居心地が悪かったら、すぐに教えてくれ」
「そういう仕事だから」
 レグネーベルはそう言うが、モニから見ると年頃の異性である。気を使って使いすぎる
ことはない。人間の文化でも概ね同じだろうと思った。
 ホテルの一室へ通された。いつでも部屋を飛び出せるように配置を整え、荷物を動線
に置いた。部屋に二人なので淡々と言葉を交わした。

「二階おきに屋上テラスがあり、一階と合わせて三段の九階建て」
「異論なし。ここが最上階で、目標から上階にひとつ、西側にひとつの部屋」
「異論なし。目標のバルコニーを斜めに確認が可能」
「異論なし」
位置関係の認識を手早く共有すると、一般客としての振る舞いに戻った。スイートルーム
を使う機会はお互いに初めてだった。何をするでもなく部屋にあるものを眺め、触ってみ
た。

 やがて七階のテラスへ向かった。席を確保するとすぐにウエイターがやってきた。いつ
でも注文でき、それでいて話の邪魔にはならない距離とわかった。注文をする前に話を始
めたいが、どのように話すべきか。モニの思案はすぐに破られた。

「珍しいわね、あなたが動くなんて」
突然の言葉に動揺を明かした。別人が来たとも思ったが、その言葉は確かにレグネーベル
から発せられた。紛れるためとあれば、口調と声色まで活用する。驚かされてばかりだ。
「まあ、たまにはな」
「ふーん、いいことでもあった?」
「ああ、そうだな」
「教えて?」
「いや、待ってくれ。追いつかん」

むくれ顔をしてみせた。こんな時を利用したアプローチの一種ではと頭によぎったが、す
ぐに振り払った。希望的観測が過ぎる。細かな仕草を見るごとに煩悩が現れていった。

 やがて護衛目標もやってきた。改めて周囲を見ると見知った顔が紛れていた。同じく護
衛を受け持った者どもだ。
 ぼそりと「違う」と呟きが聞こえた。深く考えてもいいが、聞こえないふりをした。
「ウェイター、赤を一本頼んでいいかい?」
「私はゴルゴンゾーラもお願いします」
「かしこまりました。グラスはおふたつ、ですね」
「はい、お願いします」
「お持ちいたします」
初対面の印象に反してものを知っていると感心した。会話を広げるチャンスと思って口を
開いた。
ゴルゴンゾーラは好きなのか?」
「少し前に見かけた名前だから、試しにね」
「それって、あの時のメニューか」
「そう。気になって」
話を合わせているだけとも思ったが、細かな部分を見て覚えていたのは明らかだった。
「よく見てるんだな」
「見えるものを見逃したらさみしいから」
「‥‥そうだな。あー、新しい化粧品だろう。似合っているよ」
「意外とよく見てるんだね」
「いつもと違う頬だなと思ったんだ」
「ふーん。新しくなったのはグロスの方なんだけど」
そう言いながら指を立てて唇をなぞった。
「そうなのか? 頬も違って見えたが」
そうして他愛のない会話を続けるうちにワインとチーズが運ばれた。
護衛目標が席を立つ気配を見てデカンタに残る半分を部屋に運んでよいか確認し、一足先
に部屋に戻った。酔って階を間違えたふりをしたが、すれ違う者はなかった。

 何事もないまま客室に戻れたが、酒の入ったスイートルームとあっては、こちらで事が
起きそうだ。
 シャワーを浴び、レグネーベルもそれに続いた。ベッドに腰をかけながら、つい姿を想
像した。初めて会った日には目を向けなかったと思い出した。きつくなったベルトを少し
緩めた。

 あがってきた。崩れそうなバスローブ姿は明らかに着慣れていない。
ベッドの隣に座った。椅子は扉の先なので自然なことだ。しかしだからといって、落ち着
いていられる理由にはならなかった。

「レグネーベル」
初めて名前で呼んだ。彼女は無言のまま顔を見合わせた。息も届く距離、しかも非日常的
な場所と状況である。
「ああ、その‥‥」
言い淀む。しかし今更どう取り繕っても仕方ない。本心を打ち明けよう。
「柄にもないことだが、恋をしちまった」
「そう」
視線を戻さなかった。普段であればすぐに戻すと思った。ますます頭が揺れた。胸の奥に
熱を感じた。

 気づいたときにはベッドに倒していた。早まったと思い顔を伺うと、動かないままでこ
ちらを見つめていた。
「拒まないのか」
「どっちでもいいもの」

 理性のタガはすでに外れていた。
 唇を押し当てた。手首に、二の腕に。
 両の手を這わせた。大腿に、腰に。
 後頭部に感触があった。存外に小さな手。二つでも包みきれないほどに小さな手。
 熱さが胸の奥から溢れ、全身に回った。
 耳が小さな声を捉えた。小鳥が鳴くような、小さくか細い声。
 湿ったベッドだけが火照る体にひとときの冷たさを与えた。
 今度は後頭部を包む番だ。鳥人の大きな手は肩まで包んだ。余った小さな手が腰へと回
った。
 内を巡る透明な意識がついぞ弾けた。意識が身体の外まで流れ出る感覚に全身を震わせ
た。

 夜が明けた。押し黙ったままでルームサービスの軽食を口に運んだ。まるで一夜の夢の
ようだった。やがて醒めるもの。朝になれば忘れゆくもの。
 腕時計のアラームが鳴った。無事に依頼された時間が過ぎ、護衛対象から感謝の言葉を
受け取った。事も起こらず万全だったことから報酬に色がついていた。

 戻ると見慣れない装丁の知らせが届いていた。
『親愛なるモニへ 新聞屋より』

---

 レグネーベルの帰投を待った。扉が開くたびに顔を向けては戻していた。
 トイレに立ち、再び戻る頃に目当ての顔を見た。
「おかえり。この後で渡したいものがある。それから、来て欲しい場所も」
「なにかしら」

 荷物を部屋に戻し、服を選び、レストランに向かった。

 予約していた個室に通され、注文を済ませた。ウエイターが去ったと確認すると、封筒
を取り出し、話を切り出した。

「知り合いの新聞屋からだ。読めよ」
「おいくら?」
「いんや、これは贈り物だ。‥‥あんたは受け取るだけでいい。見返りはそのうち届くだ
ろうさ」
中身を取り出し、食い入るように読んだ。一枚目の一行目ですでに表情が変わった。目線
が下まで着き、次の紙に移る。運ばれた前菜にも気付かず読み進め、読み終えるとすぐに
口を開いた。
「出発は」
「明日にしとけ。荷物を整える時間もあるだろう。それから、当分の食料と宿も手配して
おいた」
「‥‥そうする。無視して今すぐ出るかもとは思わなかったの?」
「だったらキャンセルなり、一人で味わえばいいだけさ。割高にはなるが、遠い旅路が半
ばで終わるよりは安いもんさ」
モニは食器を手にした。
「まずは食べろ。そして、成就しろよ」
「‥‥ありがとう」
封筒に戻し、レグネーベルも食器を手にした。
 これ以上の会話のないままで宿舎に戻り、眠った。

 翌朝、片付けを済ませた部屋から静かに出た。朝日はまだ赤く空を染めている。宿舎の
階段を降り、無人だと思った受付に人影があった。
「見送らせてくれよ」
「ええ。‥‥止めないでくれる?」
「あんたが決めたんなら、俺にできるのは応援だけだ」
「ふうん。それじゃあ、行ってきます」
「達者でな」
初めて来た日と同じ、確かな目的を持った足取りで扉を通った。遥か遠くの地へ。

 宿舎の屋上はモニだけの席だ。この建物を継ぐ前からそうだった。沈みかけた夕日に照
らされながら、肩を落として座ったまま、ゴルゴンゾーラをかじった。
「いい挨拶だったな」
誰もいない、ソファの左半分に向けて呟いた。
「これしかできない、腰抜けを許してくれ」
 わずかな動きでも軋むソファの音だけが月が昇るまで響いていた。