『美女とモルディギアン』
行列を尻目に関係者口を通った。
森下結衣は控え室へと向かう。
胸を張って、道の真ん中を堂々と。
駆け出しだろうと、心は一流のベテランのつもりでやれ。
先生の教えをよく守っている。
ノックして扉を開けた。
空いた椅子が多く、荷物もない。
演者らしき者は2人だけ見えた。
その片方、金髪と浅黒い肌のヤンキー風の男が向かってきた。
「はじめまして、僕はテップ内藤! 趣味はしりとりだよ。
こっちはアール白鳥、コンビさ」
よくわからない人だな、と表情に出ないよう気をつけた。
「はじめまして、森下結衣です。
今日はよろしくおねがいします」
ぎこちなくなってしまったような気がする。
軽い口ぶりのおかげで、
怖そうな印象は口を開いてすぐに覆ったものの、
心の片隅にまだ不信感は残っていた。
「他の方にも挨拶したいのですが、どちらに?」
「ああ、控え室が手狭になるからって、
時間差で入ってくるそうだよ。
僕たちの出番の頃には3番手が来るかな」
「そろそろ出る時間だ。僕は行くよ」
テップ内藤は黄金に輝く横笛を剥き出しで右手に、
アール白鳥の手を左手に持ち、
扉を抜けて舞台へと向かった。
いよいよ森下結衣の出番がきた。
舞台に上がるとつい1分前までの緊張が嘘のように、予定していたとおりに歌い踊る。
観客席から送られる歓声が舞台まで揺るがす。
大地からも歓声が聞こえるようだ。
壁が揺らぎ、天井が軋む。
床に印された紋様が輝きはじめた。
舞台を中心に、観客席の端まで広がった。
席番号の案内文字を照らして浮かべた。
誰かが異変に気付いた様子を察知した。
しかし森下結衣は止まらない。
ひとつの目的のために歌い踊る。
歓声はやがて悲鳴に塗り替えられていった。
顔が充血して赤く膨らみ、やがて血が絞り出された。
鼻から、目から、そして毛穴から。
そう、この演目は旧支配者の復活のために魂を捧げる儀式だったのだ。
朧げに見える姿は、倒れ臥す人が増えゆくほどに輪郭がはっきりしていた。
ある者は肥大化した山蛭だと言った。
ある者は形のある竜巻だと言った。
ある者は絞り雑巾の妖怪・白うねりだと言った。
かの神こそが森下結衣の信仰するモルディギアンだ。
森下結衣は研究した儀式を執り行った。
そしてその成果が目の前に顕現した。
モルディギアンを前に、
目を開けているものはいない。
誰一人として逃げ出しはしない。
足がすくんでいるのではない。
「あっはははは!
面白いことをしてくれたね!」
血まみれで倒れたテップ内藤の声が、
しかしどこか歪んで聞こえてくる。
「実は相方のアール白鳥を見に家族も来てたそうだよ。
君にとっては銀行で話をしてた人ね。
頭取を失っては大混乱だね」
挑発的な軽口を受けても、森下結衣は気に留めなかった。
モルディギアン復活の目的は果たしたのだ。
「なかなか見所があるね。
お手伝いをしよう。ここを直した方がいいよ」
テップ内藤の鉤爪が魔法陣を削り、描き足していく。
「君は本当にすごいよ。
たった1人で成し遂げちゃうんだから。
いいものを見せてもらったよ」
テップ内藤は身体を溶かし、アール白鳥と混ざり合い、
悍ましい笑い声を降らせながら、
黒く蒸発するように空へと昇っていった。
残された大量の死体は、
モルディギアンへの最初の供物となった。